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箏の事典 -- 箏の歴史 --

九章『江戸時代の箏(3) 〜山田流箏曲〜』

箏組唄は、安村検校の「飛燕の曲」以後、組唄の価値低下を防ぐために一部の例外を除いて作られなくなりました。
しかし、そのためか三絃の流行に徐々に圧倒されて来ました。
組唄の形式を破った新作曲が出来にくいため、しばらく三絃との合奏(実際は伴奏)の地位に甘んじた状態が続きました。
そこで、組唄の禁止を命じた安村検校は、京都が中心だった箏曲を江戸にも広げようとして、門下の秀才であった長谷富検校を江戸での箏曲の普及開拓者として送りました。
長谷富検校は、江戸に下って箏曲の普及の努力したのですがなかなか成果が上がらず、門人の町医者であった「山田松黒」に後を譲って京都に帰りました。
後を任された山田松黒は、組唄の譜本で名著といわれる「箏曲大意抄」を書きましたが、その一方で、「三田斗養一」という天才児を発見して箏の奥儀を授け、山田姓を名乗らせました。
この「山田斗養一」が当道職屋敷より、その技術を認められ「山田検校(1757〜1817年)」となりました。

山田検校は、当時の江戸の歌「浄瑠璃(じょうるり)」の流行に見習い、河東、一中、富本節等の旋律本位の浄瑠璃を手本に一種の歌物としての箏曲を作りました。
当時の江戸では「陰気な地唄」と言われていた箏曲を、江戸の気風に沿うものに変化させた事で、江戸はもとより関東一円に確固不動の勢力を広げる事になりました。

山田流では主奏は箏であり三絃は伴奏で、その演奏形態も箏が正面に何面も並び、末端に三絃は一挺程度が普通で、三絃の手は箏の手そのままでした。
箏の寸法も、当時の生田流は6尺3寸でしたが、山田流は6尺に縮めて箏爪も丸爪に改め、演奏姿勢も生田流は箏に対して斜めに座るのを、正面に座るように改めました。
さらに、箏の絃を強く張り生田流の「平調子」を「雲井調子」と呼ばれるように調子を高くすることで、江戸の人達が好む鋭い音が出るように工夫しました。

山田流の箏曲は、「小督」「熊野(ゆや)」「那須野」「江の島」「葵上」「櫻狩」等の山田流独特のものがありますが、もちろん山田流でも本曲である組唄は、八橋検校以後大きな変化もなく伝えられ、生田流にある曲は大抵は山田流にもあります。

山田流の勢力は次第に盛んになり、門下も多くなって来たので自然と分派が生じました。
その中でも、「山登」「山木」「山勢」の三派が最も勢力があり三派の家元が出来ました。
特にその中でも「山木」は、山田流門下中で頭角をあらわし、山田の後継者と目され、天保13年(1842年)に関東総禄に任ぜられました。

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Last modified Date: 2005/11/08 07:00:00 GMT+09:00:00
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