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箏の事典 -- 箏の歴史 --

六章『鎌倉、室町、安土・桃山時代の箏 〜筑紫流箏曲〜』

源平の合戦の後、公家中心の社会から武家中心の社会へと移り、鎌倉、室町時代には徐々に勢いを失っていた箏ですが、安土・桃山時代も終焉に近付いた頃、朝廷や幕府の置かれた近畿地方などでは無く、僧を中心に独自の雅楽文化を育んでいた北九州・久留米の地で「諸田賢順(もろたけんじゅん)」の手により、その息を吹き返します。

阿部宗任の後裔、宮部日向守武成(1555年、厳島の合戦で戦死)の子である「諸田賢順(1534〜1623)」は、幼少の頃に現在の久留米にある鎮西大本山善導寺に入りました。
賢順は善導寺で雅楽を学び、13歳の時に中国より渡来した「鄭家定」から、琴、瑟、箏を学んだことで、その才能を一層開花させ、筑紫流箏曲へと発展させて行きました。
藤原藤秀が寄進した経巻の裏紙に、雅楽の箏譜と歌詞らしいものが記してあったのを研究して、筑紫流組唄の始まりと言われる「富責(ふき)」の組唄を作曲したとも言われています。

賢順の作った筑紫流本曲の組唄は、以下の題名の10曲です。
「富責」「春風」「梅ケ枝」「四季の乱」「乱曲」「秋夏曲」「寒夜曲」「花宴」「秋山」「四季」
また北九州各地に残っていた古曲と、鄭家定から学んだ箏曲、琴曲を箏に移して、筑紫流秘詠8曲もまとめました。
これまでの雅楽での箏が合奏用のものだったのに対して、この筑紫流の箏は独奏曲を扱っていますし、楽器自体にも改良が加えられたようです。
これを「筑箏(ちくごと)」「筑紫箏(ちくしごと)」と言います。

賢順は、現在の佐賀を中心に多くの門人を養成しましたが、その一方で、「後朝鮮の役」や「慶長の大坂の陣」にも従軍したそうです。
寛永13年7月に、当時としては非常に長寿である90歳で、この世を去りました。

なお、筑紫流の演奏姿勢は古図によると片脚を立てて座る独特なものでしたが、江戸中期よりこの風習はなくなり、普通の正座となりました。
また、筑紫流の作法(?)として、何故か盲人に教えることを禁じていました。
江戸時代、俗箏の祖とされる「八橋検校(やつはしけんぎょう)」に筑紫箏を伝授した事で知られる筑紫流の「法水(ほうすい)」という僧は、この行いの為に筑紫流を破門されてしまったとも言われています。
しかし、その後に熊本・諫早の慶巌寺で、この寺の四代目住職であり賢順の高弟、筑紫流二代の「玄恕(げんじょ)」が 八橋検校に箏を教えたという矛盾した別説もあります。

この筑紫流二代の玄恕は、江戸に上る途中、大納言の招きで京都に寄り、後奈良天皇の前でも筑紫箏を弾いた事で知られます。
なお別説では、玄恕が帰郷した後、筑紫箏の弾き手の代人を送れという大納言の伝言で、同門の法水が進んで上京したのですが、技が拙いと辱めを受けて江戸に逃れ、日本橋で柏屋と言う箏屋となり、そこで八橋検校に技を伝えたという話もあります。

なお、「検校(けんぎょう)」とは、京都にあった「当道職屋敷(とうどうしょくやしき)」という当時の盲人の職能団体から名づけられた盲人の最高位です。
元々は、日本の鍼治療の基礎を築いた「杉山検校」に与えられたのが最初だと言うことです。
(現在でも、江ノ島と両国に杉山神社があり、鍼の神様として奉られています)
当初「検校」は鍼医のみに許されていましたが、琵琶や当時の三曲である三絃、箏、胡弓に携わる者にもこの位が与えられるようになりました。
(三曲が三絃、箏、尺八になったのは、ずっと後世になってからです)
ただし、この検校の位が与えられるのは盲人の男性のみに限られていた上、当道の営む職業は晴眼者の就業を許さない方針で、箏の如何なる名手であっても、女子や晴眼者は「代芸子」の名称だったとされています。
なお、明治以後、検校や当道職屋敷が握っていたこの特権は剥奪されました。

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Last modified Date: 2005/11/08 07:00:00 GMT+09:00:00
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