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箏の事典 -- 箏の歴史 --

四章『奈良時代の箏 〜朝廷の中での雅楽〜』

これまで書いて来たような経緯を経て、現在の「箏」の原形となる楽器は、今から1,200年位前の奈良時代初期か、その前後に中国大陸、朝鮮半島方面から伝来したと考えられています。
当時の中国大陸は唐の時代の初めであり、唐の都で宮廷中心の管弦楽器の一員としての「箏」と、唐の民の間で行われていた独奏用の「箏」に分かれていました。
そして、宮廷中心の管弦合奏は中国大陸の宮廷から日本の朝廷に伝わり、「雅楽」の元になりました。
大宝令の雅楽寮制度の中にも「箏師」という役割が置かれていますし、東大寺献物帳中にも「桐木箏壱張」と記されています。
また、民の間で行われていた独奏用の「箏」は九州に渡来し、室町時代以降の筑紫流箏曲の基礎となったとも言われています。

有名な「万葉集」の中にも琴に関するものがあります。
大伴旅人(665〜731年)が天平元年(729年)に、梧桐の日本琴を一面、藤原房前へ贈った時に添えた書状と二首の和歌「大伴淡等謹状 梧桐日本琴一面 對島結石山孫枝」があります。
ただし、ここで書かれている「日本琴」は和琴と解釈されている説もありますが、「7絃琴」だったという説もあります。
中国大陸の様式を色濃く残す「7絃琴」が、朝鮮半島の「玄琴(コムンゴ)」と同じ「梧桐(あおぎり)」で作られ、それを「日本琴」と呼んでいるとすると、この書状と和歌は当時の大陸と日本の文化との結びつきを考える貴重な資料とも言えます。
なお「對島結石山孫枝」とは、現在の地名で言うと「長崎県上県郡上対馬町河内の西方の山」を指すそうで、この山の梧桐で琴を作ったと考えられています。

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Last modified Date: 2005/11/08 07:00:00 GMT+09:00:00
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